小説 ある日曜日(Um Dia de Domingo)

 

【第5話】

日付変更線を越え、サンパウロを出発して3日目の夕方に成田空港に着いた。

リカルドとアナの「新婚夫婦」は、外国人向けの入国審査窓口の前にできた長蛇の列の最後尾に並んだ。リカルドと同じような顔をしている日本人は、専用の窓口を通ってスイスイと入国している。狭い座席に座っての長旅の疲れが出たのか、アナは顔色が悪く、何か不安げな様子だった。

やっと順番が回ってきて、二人は係の入国審査官にパスポートを見せた。審査官は、パスポートの写真と二人の顔を何回か視線を往復させて見比べ、うさん臭そうな顔をしながらビザの確認をした。その審査官はずっと不機嫌そうな顔をしていたが、結局何も言わずに二人のパスポートに入国スタンプを押した。

入国審査のあとは、税関でスーツケースの中身をしっかり調べられた。税関の係官は、ずんぐりとした日系人とブラジル美人の組み合わせを不審に思ったようだ。

入国の手続きを終えて、一階のロビーに出たところで派遣会社の社員が出迎えてくれた。アナはやっと安心したのか、笑顔を浮かべていた。

二人は一緒に来た連中とともに、会社が手配したマイクロバスで群馬県に向かった。リカルドは疲れていたが、初めて見る日本の景色に興奮し見とれていた。アナは窓の外の世界には全く興味を示さず、リカルドの肩にもたれて寝ていた。

夜遅くなって、ようやく彼らが住むことになる工業団地に着いた。二人に用意されたのは、錆びた外階段が付いたアパートの1階の部屋だった。入口の脇には、今ではブラジルでもあまり見かけない古びた二層式洗濯機が置かれていた。前にいた住人が買って、次の住人のためにとそのまま置いていってくれたらしい。

 

派遣会社の社員は、「明日の朝、係の者が来るので、今夜はゆっくり休んでください」と言って去っていった。

裸電球が垂れ下がったアパートの中には、台所兼食堂の向こうに、四畳半の和室が二つ付いていた。会社の手配で布団が一組ずつ用意されており、二人はベニヤの壁板で仕切られた別々の部屋で休むことにした。

アナはベッドでしか寝たことがないはずなのに、なぜか手際よく布団を敷き、すぐに寝入ってしまった。リカルドは、慣れないところに来たのと、隣からかすかに聞こえる女の寝息が気になってなかなか寝付かれなかった。

 

次の朝、リカルドは、窓から差し込む朝日がまぶしくて目を開いた。

「ボン・ジーア(おはよう)! 起きた?」

眠い眼をこすりながら見ると、目の前に紙のコーヒーカップをもった女が笑顔で立っていた。

ローライズのジーンズにチビTシャツを着ているため、可愛いおへそが見え隠れし、細い体に付いた豊かな胸と尻が強調されている。シャワーを浴びたばかりなのか、シャンプーのいい香りがする。顔にはあまり化粧っ気がないが、それがかえって清楚な感じの色気を引き立てている。

リカルドは、自分がこんないい女と一緒にいるのは夢ではないかと思ったが、アナがくれたコーヒーを一口飲んで眠気が覚め、アパートの中を見回して驚いた。

「アナが住んでいたマンションのサーラ(居間)の方が、このアパートより広いね」

そのアパートは狭いだけではなかった。畳はささくれ立っている上に、カーテンのない窓から差し込む直射日光を受けて変色している。壁は薄汚く、台所のコンロと換気扇には油と埃がこびり付いている。玄関脇にある水垢で汚れた和式トイレで用を足せば、アパート中に音が漏れそうだ。タイル張りの小さな風呂場が付いているが、洗面や着替えは台所でするしかない。

「これがジャポン(日本)よ」

「初めて来たのに、前から日本を知っているみたいに言うね」

「日本に来たことがある人たちからよく聞いていたの。日本ではお金を持っていても、ブラジルでは普通くらいのマンションにも住めないって」

布団をたたんで押入れにしまった頃に、山本という派遣会社の社員が訪ねて来た。山本は「いい女だな」と思ったのか、アナの顔をじっと見つめていた。アパートには椅子もテーブルもないので、三人は「リカルドの部屋」に座って話を始めた。

山本は、まず仕事のことについて簡単に説明した。二人とも「ハケン」社員として、リカルドは自動車の部品工場で、アナは家電の組立工場で働くことになっていた。アナの時給は800円だが、リカルドの時給は、仕事がきついのと男であるからという理由で1000円だそうだ。次の日は、朝一番に市役所で外国人登録をしてから、それぞれの工場に行って仕事を始めるとのこと。

それから山本は、生活の準備金として、一人5万円を給料の前払いという形で貸してくれた。その日は日曜日で銀行が閉まっているため、ドルの両替はできないと言われた。

「そうか、今日は日曜日ですね」

リカルドは、地球の裏側から来て、その日が何曜日なのか分からなくなっていた。

さらに山本は、平日は忙しいので、当面の生活に必要なものはその日のうちに買っておくのがいいとアドバイスしてくれた。

「買い物はどこですればいいですか。日本語が読めなくても大丈夫ですか」

「大通りに出て右に曲がったところに、スーパーやいろんなお店がありますよ。ポルトガル語(ブラジルの公用語)が通じるから全然問題ないです」

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山本はそう言い残して帰ってしまったが、アナは心配している様子もなく言った。

「天気がいいから外に行きましょう! ここにいると息が詰まりそう」

外出した二人は、多くの日本人夫婦のように手をつながずに歩いたが、大通りに出たところで、先を歩いていたリカルドが驚きながら振り返ってアナの顔を見た。なんと、目の前にポルトガル語の看板を掲げたスーパーが出現したのだ。中に入ると、コーヒーの自動販売機が目に入った。

「さっきのコーヒーすごく美味しかったけど、ここで買ったの」

「時差ぼけで早く目が覚めたから、近所を散歩しちゃった。ブラジルでもらった百円玉を使ったの」

リカルドは、日本に着いたばかりですぐに歩き回るアナの行動力に感心した。日本は女性が一人で外を歩いても安全な国と聞いていたが、本当だと思った。

「ボン・ジーア(おはようございます)!」

店に入るなり、日本人の店員がポルトガル語で挨拶してくれたと思ったら、それに続く言葉もポルトガル語。なんとそこは日系人が経営するスーパーだった。

店の隣には旅行代理店、道路の反対側には雑貨店やレストランがポルトガル語やスペイン語の看板を掲げて商売をしている。なるほど山本が言った通り、その街では日本語ができなくても生活できそうだ。

リカルドとアナは、それらの店で当面の生活に必要な食料品や雑貨品を買い揃え、かかった経費は後で折半した。

「電子レンジと冷蔵庫は早く買ったほうが便利よ」

そう言うとアナは、スーパーの入口付近のカフェテリアにある情報交換コーナーに行き、引越しセールのチラシにさがった電話番号のメモを引きちぎるなり、いつのまにか手に入れたテレフォンカードを使って広告主に電話をしている。

二人でブラジル人が好むトウモロコシのクリームケーキを食べながら待っていると、日系アルゼンチン人だという男が、車に中古の電子レンジと小さな冷蔵庫をのせて現れた。親切にもアパートまで運んでくれ、代金は合計1万円なり。

二人にとって、日本に来て最初の日曜日は楽しく過ぎていった。

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夕方は奮発して近くのレストランに出かけると、そこにいた南米からの出稼ぎ連中が、二人に酒をおごりながら歓迎してくれた。日本に来たのに、二人ともまるでブラジルでの生活が続いているような気分だった。

アパートに帰ってからは、時差ぼけに酔いも加わり、お互い別々の部屋に布団を敷いてすぐに寝てしまった。

【第6話】に続く

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