戦後70年:パナマ運河を爆撃するために建造された旧日本海軍の超大型潜水艦が発見された!

戦後70年目の今日(8月15日)をパナマ市で迎えました。

8月15日はパナマ市の創設記念日に当たり、各種の関連行事が行われているせいか、終戦に関するニュースはあまり聞かれません。

 

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1519年8月15日、スペイン人によりパナマ市の建設が始まりました。最初に建設されたこの町は1671年にイギリス人の海賊集団により完全に破壊されましたが、その遺跡(上の写真)はパナマ・ビエホ(Panama Viejo)を呼ばれ、世界遺産に登録されています。

 

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最初の町が破壊された後、1673年に約11km西南の地に新しい町が建設されました。この町はカスコ・ビエホ(Casco Viejo)と呼ばれ、今でも大統領府や外務省が置かれ、同じく世界遺産に登録されて、連日多くの観光客で賑わっています。

 

実は、私も今日はここカスコ・ビエホで、最近オープンしたワインバーで飲みながら、本日のテーマ「戦後70年:パナマ運河を爆撃するために建造された旧日本海軍の超大型潜水艦が発見された!」について考えていました。

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さて、今月に入り、長崎県の五島列島沖の海底で、70年前に出撃せずに終戦を迎え、その後米軍に沈められた旧日本海軍の大型潜水艦「伊402」(全長約120メートル)とみられる船体が見つかったとの記事に接しました。下の写真は、同記事に掲載された同型の潜水艦(「伊400」)の写真です。

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この記事を見たとき、在パナマ日本大使館のHPのパナマ運河の紹介記事を思い出しました。

第二次世界大戦当時、旧日本軍には極秘のパナマ運河爆破計画なるものが存在した。その計画とは、同盟国であったドイツの敗色が濃厚となり、不要となった米英蘭連合軍大西洋艦隊の太平洋への回航が予想されたため、これを少しでも遅らせるためのいわば時間稼ぎのための運河封鎖計画であった。この目的を達成するため、日本海軍は極秘裏に艦上攻撃機「晴嵐」3機を搭載する「海底空母」伊400号型潜水艦からなる潜水艦隊の建造を進めていたが、時既に遅く、2隻が完成した段階で日本は沖縄決戦を迎えていた。遙かパナマまで攻撃に行く計画は変更を余儀なくされ、同潜水艦隊の攻撃目標は南洋のウルシー諸島に変更された。最後は同諸島沖合まで達した時点で終戦を迎え、伊401号は一度の攻撃もしないまま米国に没収、徹底的な調査を受けた後、爆破され、海の藻屑と消えた。当時、米軍はそのあまりの巨大さ、航続距離の長さ等に驚愕したという。

そうです!パナマ運河を攻撃する目的で建造された旧日本海軍の大型潜水艦が発見されたのです。

再び、上記の記事から引用します。

潜特型潜水艦は航空機を3機搭載するため非常に大きく、1960年代に核ミサイルを搭載した 原子力潜水艦が建造されるまで世界最大の潜水艦だった。 また、日本から見てほぼ地球の反対側に位置するパナマ運河が当初の攻撃目標だっただけに、 無補給で地球を1周半できるほど長大な航続距離(14ノットで37,500海里)を持っていた。しかし一方で潜水航行時のノイズが大きかったため、潜水艦最大の武器とも言える隠密性にはやや難が あったと言える。ただしこれは当時の日本の潜水艦すべてに当てはまることでもある。

 

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勝手な想像ですが、70年前に、もし旧日本海軍の大型潜水艦がパナマ湾沖まで出撃し、そこから飛び立った爆撃機がパナマ運河を攻撃していたら、歴史はどうなっていたでしょう?当時パナマ運河とその周辺はアメリカの統治下にあったため、攻撃はアメリカの領土に対する爆撃と見なされ、パナマ運河は第二のパールハーバーとして歴史にその名を刻んだのでしょうか。カスコ・ビエホにあるパナマ運河博物館には日本の攻撃に関する展示物が置かれたかも知れません…。

 

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上の写真は、今年の4月にパナマ湾に現れた米軍の空母です。70年前、もしそこに爆撃機を積んだ旧日本海軍の潜水艦が現れていたらと想像するだけで、何か心がワクワクします。今でも日本からジェット機で来るのも大変な遠いパナマに、当時潜水艦を操って攻め込もうとする作戦があったとは驚きです。

 

戦後70年目の今日、平和なパナマ市カスコ・ビエホで、昼間からワインを飲みながら、そんな不謹慎な想像をしつつ歴史の「ロマン」を感じていました。

 

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