小説 ある日曜日(Um Dia de Domingo)

 

【第1話(プロローグ)】

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六本木ヒルズの夜景

《ブラジル女性に薬の魔手》

警視庁によれば、9月4日・日曜日の深夜、東京・六本木の麻布警察署付近の路上で外国人女性がうつぶせに倒れているのを、通報を受けて駆けつけた救急隊員が発見した。着衣に目立った乱れはなく、外傷もなかったが、心肺機能が完全に停止していたため、その場で応急手当が施されたが、すでに手遅れで死亡が確認された。 現場に落ちていた女性の物らしい手提げバッグの中には、合成麻薬の錠剤が入っていたが、司法解剖とその後の検査の結果、女性の体内からそれらの錠剤と同様の薬物成分が検出されたため、急性麻薬中毒により死亡した可能性が大きい。 警視庁の調べでは、死亡した女性はブラジル国籍で、今年6月に日系三世の夫と共に来日し、群馬県内の工場で働いていた。夫の話では、妻は前日に「友達のところへ行きます」とのメモを残して出かけたが、妻が何のために東京に行き、なぜ麻薬に手を出したのか分からないという。(2005年9月の新聞記事)

 

 

私の名前はフリオ(Julio)。半世紀以上昔に日本で生まれたらしい。「らしい」というのは、私には正式な出生記録が無いからだ。 1949年の年明けに、東京のどこかの駅の構内に捨てられていたのを発見されたらしい。肌の色や顔付きから、白人の進駐軍兵士と日本人女性の間にできた混血児らしいとされ、両親が分からなかったため、同じような目にあった子供の面倒を見てくれていた私立の養護施設にあずけられた。 私は生まれてしばらくどこの国の人間でもなかったが、日本で生活するには人並みに戸籍がなくては不便なため、一応誰かに発見された年の1月1日に生まれたことにして、日本の国籍と名前をもらった。ただし、フリオというのは、この時もらった名前ではなく、南米に行ってから自分で付け加えた名前だ。

少年時代を過ごした養護施設では、仲間の子供たちと一緒に母親代わりの女性に可愛がってもらったが、施設の外では、私たちはどこに行っても「外人」とか「あいのこ」とか呼ばれていじめられた。 高度経済成長の中で多くの日本人が未来への期待を抱いていた1965年の春、16歳になった私は、この国での自分の将来に希望がもてなくなり、神戸港の大桟橋から移民船に乗って南米に移住した。 はじめはアマゾン河流域の日系人農場で働いていたが、やがて一人で都会に出て行き、蓄えていた金と自分の体力を元手に、ブラジルやコロンビア産の宝石や貴金属を取り扱うビジネスを始めた。 地球の反対側にも差別や偏見はあったが、私にとって南米は、日本よりはるかに夢と希望を与えてくれるところだった。 ジャングルの奥地にある鉱山地帯は未だに西部劇のような世界で、何度か命拾いをする経験をしたが、自分の可能性を信じてがんばっているうちに、それまで見放されていた運も味方してくれて、やがて宝石業界で成功した「日本人」として南米では少し有名になった。

私生活のほうは、素性の知れない私を理解し受け入れてくれた女性とめぐり会って結婚し、ようやく家族としての幸せを手に入れた。南米では、日本人移民(私)とヨーロッパ系移民(妻)の間にできた息子にも、自動的に生まれた国の国籍が与えられたため、両親と子供の国籍がばらばらになったが、移民社会である南米ではよくある話だ。息子はいじめにあうこともなく、幼い頃から白い子や黒い子に混じって遊んだおかげで、誰にも偏見をもたない思いやりのある人間に育ってくれた。 そんな人生を送っていた私だが、社会人として一人前になった息子が米国に行ってしまったのを機会に、ビジネスの世界から手を引くことにした。私はその頃になってようやく、自分が本当に求めていたものは富や名声ではなく、愛する人間と静かに過ごせる時間と空間だということに気付いたからだ。

ところが、南米の各地に作った宝石店舗をユダヤ系の商人に売り払い、ようやく妻と共に余生を過ごす場所を探そうとした時、私の人生に再び試練が訪れた。彼女がガンに侵されていることが分かり、余命わずかと診断されたのだ。 もうこれ以上治療のしようがなくなった時、妻は病院を退院して、あの世に旅立つまでの数週間を私と共に自宅で過ごした。 その頃二人で交わした会話といえば、「今日はいい天気だね」とか「お昼は何を食べようか」とか、たわいのないものだった。孤児として育った私は、家族を失うことの意味がよく分からなかったが、妻を亡くして初めて、いつもそばにいてくれて何気ない会話をしてくれるパートナーの存在が、自分にとっていかに大切だったかということに気づいた。 「自分は妻が愛してくれた以上に、彼女を愛してあげただろうか」と後悔した時には、愛情のお返しをすべき相手は、もうこの世にいなかった。 息子は親元を離れ、愛する妻に先立たれ、再び一人になった私は、昔とはずいぶん変わったらしい「祖国」の日本をもう一度見たくなって帰国した。南米で大もうけしたおかげで、帰国後は食うに困らない。つまり私は、南米移住で成功して帰国した数少ない「日本人」の一人だ。

今は、東京・青山にあるマンションビルの一階の片隅に住み、同じビルの中にある「ワンルームマンション」をいくつか所有している。 東京の一等地と言われるところでは、南米の家にある女中部屋くらいの広さのスペースをいくつか買って店子を入れれば、毎月の家賃収入だけで南米の平均的サラリーマンの年収くらい稼げるから驚きだ。 マンションの経営管理はすべて不動産業者に委託しているため、暇な私は、日本に滞在する日系人向け新聞の編集を手伝うかたわら、少しでも人様の役に立てればと、日本で生活する「外人」のよろず相談を引き受ける「トドス・アミーゴス(みんな友達)」という会の代表を務めている。会といっても、私の自宅にある事務所にいるのは私一人で、あとは会の趣旨に賛同する仲間がボランティアとして活動に参加している。

手元の辞書によると、「外人」とは日本国籍をもたない外国人をさすという。ところが、「外人」という言葉は、実際には辞書の定義どおりに使われていない。なぜなら、日本の社会では、私みたいに日本の国籍をもっていても、顔付きや態度が変わっている人間は「外人」と呼ばれるからだ。 経済発展によって日本はずいぶん変わったけれど、この国で「外人」というレッテルを貼られて生きていくのは昔も今も楽じゃないみたいだ。今日も「外人」と呼ばれながら生きている男が相談にやって来た。

【第2話】に続く

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